三夜踊りの変遷

 輪島市の無形文化財に指定されている「三夜踊り」は、輪島で生まれ育った伝統芸能の一つです。この踊りは遠く室町(足利)時代に始まり、江戸時代の元禄期に最も隆盛を極めたと言われています。その頃は、御講連中というグループがあって、神社や寺院の境内に集まって「高砂もじり」や「やれやれ」などを歌い踊って、夜の明けるのも忘れたそうです。事に、孟蘭盆会には、鳳至の神社、輪島崎の寺院、河井町の神社などへ出かけて、三晩続けて踊り明かしたので、「三夜踊り」と名前が付いたそうです。
 また、中世、重蓮寺または重蔵権現で地蔵祭りが行われる時、僧侶たちと町人が縁日の前夜、旧七月二十三日に踊ったのが起源だとする説もあります。

お盆には、亡くなった先祖の魂が来世から帰ってくるので、その霊を慰める為に踊り明かすのだと言われ、男は女物着物を頭からかぶり、腰巻きを巻いて女装し、女は男装して編み笠で顔を隠して、笛、太鼓、三味線に合わせて足を摺るようにして、行きつ戻りつ揺らぐように踊るのが特徴で、歌詞を長く引っ張って歌うというのどかなもので、独唱、合唱が交互に繰り返されます。音頭取りは高さ約一・五メートルの櫓の上で「ハ・オテヤレ・オテヤレ」の囃子を受けながら歌い続けます。
 ところが、明治四十三年に河井町に千軒以上も焼き尽くす大火があってからは、三夜踊りも自粛され次第に衰退してゆきました。
しかし、昭和の初期になると平井道太郎氏らの有志中心に「三夜踊り保存会」が結成されてからは、歌詞や、音符も改良して、旧にも増して賑やかなものになりました。そして、昭和十年には電気会社の記念行事の一つとして一本松公園の広場で踊ったり、また、昭和十五年ごろには女学校の運動場で軍人の指揮の下に踊ったりもして、大変盛況だったと伝えられています。
それも束の間、太平洋戦争勃発による戦時中や戦後の荒廃期に続いて、昭和三十年初期には相次ぐ洪水被害などで踊りどころではなくなっていました。

 昭和三十八年八月、ようやく成った水害復興と市政施行十周年を記念して、輪島川の真ん中に櫓を組みいろは橋から新橋まで二千人以上の市民による踊りの輪ができました。
その時には万灯の明かりが川面に揺れ、遠く町野や西保、三井方面からも市民が集まって三晩とも踊り明かしました。その後数年間、この場所で踊りが続きましたが、市庁舎移転新築とともに三角州に場所を移した頃から、やや衰退の兆しが見え始め、最盛期の頃を懐かしむ人々も出てきました。
 その後、昭和六十一年からは、重蔵神社の境内で一晩だけの踊りになったり、囃子や、音頭も録音テープを使うようになり踊り手が減少、消滅危機的状態となっていきました。
 しかし三夜踊りを愛してくれる人々の声援もあり平成三年に結成された三夜踊り保存会によって再び生囃子による三晩踊りの復活をし、現在に至っています。

     三夜踊り過去から現在